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女性
趣味:
読書だったり飲酒だったり。
自己紹介:
2013年今日は。
札幌あたりで養蜂やったり酒飲んだり本読んだりアニメ見たりしています。
SFが好きです。

今年はもうちょっと、言葉を大事にしようと思います。
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雨だー。
雨が降ったりやんだりしている。



…まあね、面白くない自覚は多分にあるんですよ。
だがしかし、そもそもこのブログの存在意義は私の自己満足のためって云う、只それだけなので、アップするカテゴリの比率をとやかく云われる筋合いなんて本当はないのに…。
うう、ちくしょうめ。
そっちこそ早くもっとコンテンツ増やしやがれってんだ、ケッ。
以上私信でした。お見苦しくて申し訳ありません。


と云うことで、読んだ本の話。
ジョナサン・キャロル『木でできた海』
先ずタイトルがいい。そして表紙の妙に物哀しげなのもとてもいい。

作中、ある問題を解決するために主人公は十代の頃の自分や死ぬことになる直前の自分に出会ったりします。それを踏まえて。

京極氏が「連続した歴史と云うのはマヤカシだ」的なことをよく書きますが、ならば連続した自分あるいは自己というものも、ないのかもしれません。
少し前のエントリにも書きましたが、高々二年半前の自分の手紙を読んで、当時はこんなことを考えていたのかと驚いたりする。
(これは京極氏の云う所の不連続性とは違っているのかもしれないし、単に私の記憶力の問題かもしれませんが。)
十代の頃の自分と、今の自分と、最晩年の自分とでは、見た目から考えから価値観から、大きく違っていると思います。
この三者で同じテーブルに着いてにこややかに和やかに世間話なんかできるだろうか。ましてや何かしらの重大な問題を解決することなんか。
赤の他人となら、同じくらい年のはなれた人たちと協力し合えるかもしれないし、実際にそれは起こりうることだけど、自分自身とは、…どうだろうか…?
思い出しただけで死んでしまえそうな、無知で無恥で厚顔で純粋なことにも無自覚な、本当に無い無い尽くしな十代の自分、と、今の姿も晩年の頃から見たら悶絶ものかもしれない自分、と、逆に下の年代から云わせてもらえば、「その年の取り方はあり得ない」なことになってるかもしれない晩年の自分、の三者。(考えるだに恐ろしい)

判ってないことを、判ってしまう故に生じるストレスは並外れて大きいでしょうが、それを問題視しなくて済むようになったら…、なんだか物凄い自己の統一に繋がるのかなーと。
物語を読み終えてそんなことを考えました。
実際の所、過去の自分に会ったり未来の自分に会ったりするのは私が存命中には叶わない可能性が圧倒的に高いので、想像しては恐れ戦くくらいしか出来ない訳ですが。
でも、未来の自分に会うことは出来なくても、こうしてブログやらなにやら少しでも色々な所に痕跡を残しておけば、過去の自分の一部を目にすることは出来るなーとも。
だから人は日記つけたりするのかしら、とか。

昨日の自分、今日の自分、明日の自分。
変化するものしないもの。その理由。その意味。
ぼんやりと色々思いを巡らせる物語でした。



ところで、未だに伊藤計劃氏の読書感想が書けてない訳ですが。
もうあと二三回ずつ読まないと書けないかもしれない…。
まあ明らかに気負いすぎなわけですが…。
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いい天気です。

一昨年買ったスミレの鉢。
寒さに弱く、夏が終わると枯れ上がってしまうのだけど、この時期にはちゃんとこうして芽吹くんですよ。
すごい。すごいなあ。
完全に乾いて枯れているようにしか見えないと云うのに。
去年はそれが初めてで吃驚したけど、こうしてまた。
今年もまた、あちこちに種を飛ばしまくるんだろうなあ。

読んだ本の続き。
と云っても、二冊しかない。

宮木あや子『群青』
…なんか単行本発売時の帯に、既に「映画化決定!」とかって書いてあるの、なんなのだろうか。
決定、つか、映画のために書いたんじゃないの?
…内容もそんな感じだった。
仕事は選べない時期なのかもしれない。

次回作に期待します。

ところで、つい百年くらい前までは沖縄だけじゃなくて日本全国どこでもそんな感じに死と生の境界が曖昧だったり重なってたりしてたんだろうなあ、と思う。
判りやすい自然の力を借りないと、そう云うことイメージとしてでも感じられない、ってことが問題な気がする。

塔山郁『毒殺魔の教室』
デビュー作だそうです。
中々凝った作りで、デビュー作と云うにはかなり手慣れた感じでした。
実際作者自身も若いとは云えない年齢らしいので、これまでに沢山書いてきた人なんだろうな、と思います。
面白いかどうか、と云えば、面白く読めましたが(私は例の「〜献身」よりよっぽど素直に楽しめた訳ですが)、何か微妙に心残りと云うか、物足りない感じ。
だけど小学生の時のクラスの女子に対する感情なんかが「すごくよく判る…」と云う、納得も出来る部分もかなりあったのも確か。
年齢を重ねたからってこの人のこういう所には適わないなあ…って、主人公が思う所とか。
ミステリの公募でデビューした方なので、以降ミステリ作家としてやっていかれるのでしょうけど、ミステリ以外のものを書いてほしいなあ、と僭越ながら思いました。


と云った具合。
昔は割と女性の作家ってあんまし好きじゃなかったんですけど、最近は読んでもいいかなと云うか読めるなと思えることが多いな。
…これが年をとったと云うことか(笑)
いやまあそれはさておき。
丸二ヶ月で八タイトルか…ペース遅いな…。
それなりにもうちょっとがんばろう。
なんか主体と客体が曖昧、とか云われるので、…。
いや元々、ここは客体とかカケラもないと思うのですけど。



読んでだいぶ時間が経過してしまいましたが、読んだ本の感想。
森達也『東京スタンピード』
去年の十二月に発売になった。
年明けすぐに読んだんだけど、もうちょっと発売が早かったら本屋大賞のノミネートに入ったりしなかったかしら、入ればいいのに、と思いました。

“〜狩り”って怖い。
そこに大義名分が付加されて、狩る方も狩られる方も何となく納得してその状況を受け入れてしまってたら、もっと怖い。
森さんは自身の他の著作に「思考停止が一番怖い」と繰り返し書いてますけど、まさしくそれがテーマの小説でした。
元々森さんはライターよりも小説家になりたかったって何かに書いてあったような気がする(何という曖昧情報)のですけど、ファン待望の初小説。
確かに小説としては微妙に作りが甘い(偉そうですいません。好みの問題かもしれないけど)気がするんですけど、このテーマこの内容は「小説」にするってことがきっと意味があるんだろうな、と思いました。
私は、森さんの、悲しんだり傷ついたり怒りを覚えたり呆れたりしながらも、人と云う存在の根底を強く信じている、と云う所がすごく好きです。

春日武彦著、吉野朔美マンガ『精神のけもの道』
基本精神科の人が書いたエッセイとかは割と好きだし、少ない枚数だとはいえ吉野さんのマンガも載っているとのことだったので買ってみた。
…なんかアレだ、こういう本って野次馬的なんだろうと思う。
そしてエッセイは基本読まないのに、精神科の人が書いたのは読んでしまう私も、十分すぎるくらい野次馬なんだろうと思う。
作者の人にほんのり反感めいたものも感じつつ、面白いのは面白い。
なんかでも、単純に「面白い」とだけ云ってはいけないんだろうと思う。
お医者さんも人だし、「そういうの」を期待して読んでる私も私なんだが、読後、なぜか救われないような、苦く嫌なものを感じた本でした。

J・P・ホーガン『星を継ぐもの』
久しぶりに再読しました。
一回目はなんか色々なことに圧倒されて、状況を理解しきれてなかったんですけど、今回でだいぶ判りました。
やっぱり壮大な話は時間がかかっても再読した方がいいなあ。特にSFとか、私はそっち方面が好きなくせに素養が皆無なので、一度読んだくらいじゃとても理解できない。(…特にSFでなくても理解しきれないってことは多々ある訳ですが(泣笑))
この人の、色々あって決着もついて、そして最後の頁にてピタッと嵌るべきものが嵌るべき場所にすっと納まるのが、すごく好きだ。
訳も好き。訳モノで物語と文章の両方に酔いしれられるのは、私はそう多く読んでないです。

R・A・ハインライン『大宇宙の少年』
ハインラインです。
うーん正直微妙だった…。
何か、私の感覚と肝心な所が少しずつズレているようで、概ね楽しく読めるんですけど、何かがもう後一つ二つ足りない気持ちになったのでした。
なんだろうか。訳の問題だろうか…と思いながら訳者あとがきを読んでいたら、大本は素人さんの訳だって書いてあった…。マジかよっと思いながらも、どうなんだろうか。
また訳が違ってたら、…どうなんでしょうか。

R・A・ハインライン『ルナ・ゲートの彼方』
またハインラインです。
こちらはなかなかよかった。
子どもの頃、秘密基地作ってそこでごっこ遊びとかやりませんでしたか。
私はやりました。
身近な材料でよくやってましたが、一番楽しかったのは、雨の日に外で、ぬれいているアスファルトの上に何枚も新聞紙を重ね、上から傘を何本も開いた状態で組んでゆき、ドーム状の空間を作ると云う。
全くもって秘密でもなんでもないし、寧ろ目立ちすぎるくらいだが(笑)
しかし中は傘の柄が何本も交差しているので小柄である子どもしか入れない、と云うのが一番の魅力だったように思います。
…でも、雨が降り止まず、床代わりの新聞紙がどんどんびしゃびしゃになり、子どもが遊びに使っていい枚数を超える頃、私たちも飽き始め、どれくらいそうしていたかはもう判りようがないけれど、誰からともなく片付けて、結局は室内の遊びに切り替わっていきました。
開いた傘の中は、自分たちの王国でしたけど、部屋に帰ったらやっぱりただの子どもでしかなくて。その夢から覚めるようなギャップが何とも。
前置きが長くなりましたが、これ、そういうお話です。
限られた空間で、限られたものを使い、その時の自分たちの最大限の能力を用いて秩序や社会を築いたけど、一歩外の世界からそれを眺めたとき…。
まあ、これは大人だから子どもだからとかそういう枠組みだけのお話じゃないのでしょうきっと。


やっぱり一気に書くと長くて収拾がつかないので、一旦ここまで。
Title : うつるよ。
あー、今日も晴天。
空気が乾燥しています。
注意が必要です。



昨日のエントリで一緒に書こうと思っていたんですけど、一作品ですげー長くなっちゃって、力つきたので仕切り直し。

お休み中に読んだ本。
京極夏彦『塗仏の宴』支度1〜4始末1〜4
また京極かよっと云う突っ込みはなしの方向で。
読み始めたら止まらないんですよ。

うーんと。感想。

…あー、この話、登場人物多すぎ。
そしていつもの様に色々な主観へ行ったり来たりするので余計惑わされました。
単に私がアホなだけですけど。

思ったこと。
作中、「よく『個人』といったものを主張するけど、『個』とは何なのか。周囲の有り様によって変化するものなんじゃないか?
だとすると、『個』と云うものは本当はないのじゃないか?」と云うようなことがありまして(物凄い端折ってあるので、意味が伝わりにくいかとは思いますが、…そこはそれ。let's read 京極堂と云う事で)更に、「周りによって変わるものならば、『個』とは鏡の様なもので、映り込む周りの景色が変われば、鏡に映る景色も必然変化するし、『鏡を見る』と人は云うけれど、映っている景色を見ているのであって『鏡』自体は見ていない。…」と云う様な事がありました(また例によって物凄く端折ってます)。

こういった部分を読んで思ったのは、
個は確かに周り(自分以外の存在)があって初めて存在するので、確かに鏡の様なものだろうけど、厳密には鏡は一枚一枚どこか違っているので、移った景色も畢竟どこかしら違ってくるものなんじゃないかな、と。
それで、その違いが「個」と呼べるものなかもしれないし、そうでもないかもしれない、のか?、、、とかぼんやりそんなことを。
人と人の違いなんて、割と些細なことだったり行き違いがあったりして、それが面白かったり悲劇だったりするってことなのか、とか。
…うーん。多分、私はなんか読み違いをしてそうだな…(笑)
声高に個性尊重とか重視とか思いませんけど、みんなちょっとずつ違うらしい、ってことだけ知ってたらいいのじゃないかしら、とか。

とか、多すぎですけど。
まあ後そもそも、鏡がないと周りも映らないので。
うん、まずそれが大事ですね、きっと。

大学のときレポートのお題で「何故人は絵(その他創作と云われる全てのこと)を描くのか」と云うのがあったことを、思い出します。
これは前回の鉄鼠にも少し絡んでくるんですけど。
何か私はその当時も人は何かしら自分が得た外からの刺激を、どうにか形にして再び自分の外に出そうとし、その行程や、結果生み出されたものや、行為が芸術だったり創作だったりするのではなかろーか、と思っていて、そう云った旨のことを延々用紙に二十枚近く書き綴ったという。
ここまでが鉄鼠に絡んでいて、で、ここからは塗仏絡みなんですが。
その外から得る刺激を自分の中に入れる際のフィルターも、出力する場合に通すフィルターも人それぞれ違うので、そこに所謂差異としての「個性」が生じるのじゃなかろーか、と云った様な事も延々書き綴ったように思います。
…一枚で済むがな、たったこれだけのこと。

あー、今回はもそっとシンプルに纏めようと思ってたのに、何かまたズルズルと…。
年明けからこっち、ずっといい天気。
寒いけど、冬はやっぱりこうでなくっちゃ。



新年明けました。
どうぞ今年もよろしく。
2009年はどんなことになるでしょうかね。

えーっと。
去年末から本を何冊か読みましたよ。
お休みは三が日だけって云う、なんか悲しくなる日程でしたけど。
…それでも休めるだけ幸せだー。

京極夏彦『鉄鼠の檻』1〜4
これも三度目の対面。
初めてと二回目の時はかなり意味が分からなくて、禅の説明の部分やらでいっぱいいっぱいになりながら読んでいたので、正直、ストーリーをあまり追えていなかったのでした。
だから、読了後の印象がかなりぼんやりとして、だけど疲労感だけは無駄にあって、なんだかケムに巻かれた様なイメージがかなり強い作品でした。
今回は、最初から禅の事などはどうせ理解出来ないだろうから、それはそれでキャラの動きやらストーリーやらをなるべく追って行こうと心がけたのが幸いしたのか、三度目にして漸く「あ、そう云うお話だったのね?!」と思うに至りました。
…アホスギル。

と、今回読んで思ったこと。
心の動きを人に伝えようとする時、身近な手段として言葉と云うツールを使う事が圧倒的に多いと思うのですけど、同じ言語を使ったとしても当人同士の認識がずれていたり意味を取り違えていたり、言葉だけじゃなくてそれを伝えようとしていた状況だったり、口調だったり、はたまた受取り手の気分次第で左右されて、発した本人の思惑と違った風に伝わったりすることもままあると思います。
だから本来なら、なるべく本人の意図した通りに通じる様に認識の擦り合わせなんかにかなりの労力が必要と思うんですけど、まあ、まずやりませんよね。
でも、この作業って、やっぱり大切なのじゃないかしら、と。
私は所謂空気を読んだりよく気がついたりするタイプでは、全く、ないので(気を遣うことは結構してるつもりなんですけど、裏目裏目に出るダイプ(涙))、日常会話などでその場その場の瞬間的な、言外の「認識の擦り合わせ」が得意ではないのですが。
だからこそ余計に、言葉って重いと云うか、深いと云うか重要なんだな、と。

それでも言葉では伝えきれない事と云うものはありまして。
それが作中では「言葉にすると逃げて行くもの」と云う風に表現してあります。
酷く納得の行く表現です。
作品に絡んだ事で云えば、「悟る」ということは到底言葉では言い表せない境地なのですが、悟った事を本人は勿論、その人が悟ったかどうか判る人には判る、らしい、と云う。
私の拙い言葉でどう纏めても、なんだか「悟り」自体が酷く俗っぽく簡単な事みたいですけど。
でも、その到底言葉では伝えられない境地が衆生救済の為には必要とされている(悟る事だけが必要ではないと思いますけど)ので、それを実践されている多くの人々は、どうにかして後進にそれを伝えようとする。
そうやって形に表されたのが数多ある教典だったり書画、仏像だったりするのかな、と。
確か二巻あたりにその様な事を敦子が思う場面があると思うのですけど、それを読む少し前に殆ど同じ様な事を私も考えていたので、吃驚しました。

そして京極さんも、隙間を丁寧に丁寧にこれでもかと云うくらい埋めてゆく様に、多くの言葉を用いて作品を仕上げて行く。
つらつら思うに、「言葉にすると逃げて行くもの」は、誰の心にも有って、それに真摯に向き合い具に眺め、形に表していこうとすることが、表現者、実践者と呼ばれるに相応しい人々なのじゃないかしら、と。

京極作品の厚さと重さが、別のものに感じられた、今回の読書でした。