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冗長なだけのブログ。
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真
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女性
趣味:
読書だったり飲酒だったり。
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2013年今日は。
札幌あたりで養蜂やったり酒飲んだり本読んだりアニメ見たりしています。 SFが好きです。 今年はもうちょっと、言葉を大事にしようと思います。
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Title : 踏み出すか踏み止まるか。
昨日に引き続き、曇りのち雨。しとしとぴっちゃん。
ごく稀に、英語設定のブラウザでアクセスがあります。 キーワード検索でいらっしゃってる訳でもなさそう。 なんだろうか。 ドイツからもアクセスあった。 なんだろうか。 一月二十日に本屋大賞のノミネート作品が発表されました。 二月二十八日が二次選考投票の〆切り。 うーん、どうしようかな。 取り敢えず、読むかどうかは別にして。 作品名五十音順。 ・『悼む人』天童荒太 ・『告白』湊かなえ ・『出星前夜』飯島和一 ・『ジョーカー・ゲーム』柳広司 ・『新世界より』貴志祐介 ・『テンペスト』池上永一 ・『のぼうの城』和田竜 ・『ボックス!』百田尚樹 ・『モダンタイムス』伊坂幸太郎 ・『流星の絆』東野圭吾 以上の一〇タイトル。 読みたいと思っていた作品が三タイトル。 鬼門の作家が二人。 今回はどれも読んでなかったからなあ。正直どうだろう。 量的には読めない訳では全然ないけどな(要はモチベーション)。 うーんうーん。 モチ…。 何かやらねばならんことが別にあって、そのプレッシャーとかあって、本を冷静に読めるか判らない。 モチ…。 PR |
Title : 吹けば飛ぶ。
晴天だったなあ、一日家に居たけど。
なんか年末からこっち、私のテンションが無闇に上がらないなあ、と思っていたんですけど、理由を思い出しました。 いや、ものごっつ瑣細と云うか個人的なんですけど。 余り熱心にニュースとか社会の動きなどを追わないのですけど、だから頼りにしてた時事ブログがあったんですけど、そこが閉鎖、とまでは行かないまでも無期休止になってしまいました。 理由は判りません。管理人さんの個人的諸事情とありました。 残念としかいい様が無い。 あー、気長に待ってるので、是非再開して頂きたいなあ。 あと、漫画が面白くて日参してたサイトがあるんですけど、そこの管理人さんの日記に愕然とすることが書いてあって、落ち込む。 私がその方の作品を面白いと思う事と、その方の信条価値観などを私がどう思うかは別問題なので、作品自体を私が面白いと思えるうちは変わらずに見ていこうとは思っています。し、実際日参の体制は変わりないのですけど。 なんか、やっぱりどこか冷めてしまった部分はあります。 うーむ。 他に気を重くする要因もあるにはありましたけど、中々年末から振り切れてないなあ私。 人って奴は、些細な事で浮かれたり落ち込んだりするなあ、って今、自分自身の精神状態で確認中。 ああー。 はふ、追い打ちだよ。 上の文章をアップしてからブクマ確認してたら、数少ない大好きサイトが閉鎖するって…。 わーん。もう泣いてやるんだから。 |
Title : 日本海気候だから。
ハールサメ!ハールサメ!
長崎には「春雨」と云う地名があります。 あー…テンションを上げる要素なんて皆無なんだけど、何か無理矢理にでも上げておきたい気分だったり。 空元気も元気のうち。 いや別に、下げる要因も特にあった訳でもないです。 東京は、九州よりぬくい! 九日から十三日まで実家の福岡とついでに長崎に行ってました。 その間向こうはずっと天気は曇りで時折雪もちらついたりして。さぶかった。 南の方だからあったかいと思われがちですけど、北部九州は存外寒いです。 私も忘れてましたけど。 えー、実家に帰ると、物凄い疲れます。 基本、母の話を延々聞く事になります。止まりません。 壊れたレコードの様に、ある所まで来ると、また頭から全く同じ話を繰り返します(別に惚け始めてる訳ではないですよ。彼女は昔からこうでした…)。 私は普段滅多に帰省しないので、時間が(そして忍耐が)許す限りなるべくお話を聞いてあげようと思ってますけど、……楽しい内容ならそれほどかまわないのですけど、多分一番母が話したいことであろう愚痴は、正直、何度も何度も聞きたい話ではない…。 大学時代の友人を見習って、あまり愚痴や誰かの悪口を口に出さないように心がけているのですけど、自分自身の心が平和であるには、私にとってこれはかなり有効な方法です。 母を見てても、腹がたってる事柄や人物に対して、口汚く罵れば罵るだけ自分の言葉に更に怒りが煽られているように見えました。 なんか、そう云う精神状態じゃ、うまく回る事も回らなくなるんじゃないかと、少し心配になってしまう…。 一応、あんまり怒ってばかりじゃよくないよと宥めておきましたけど、母は人の意見を最後まで聞かずに必ず遮って自分の意見を主張し、納得してしまう悪い癖をかましながらだったので、どこまで伝わっている事やら。 んー。色々むずかしいなあ。 …長崎は、長崎も曇りで時折雪がちらついてて、海の近くのせいか風が吹き荒んでいてさぶかったです。 一泊したホテルが、ツアーのパックの中で一番安い料金だったにも拘らず、かなりちゃんとした所だったので、まずそこが満足でした。 時間が許すなら連泊したかった…。 今回は一日目に長崎県美術館、二日目に長崎歴史資料博物館、長崎原爆資料館が主な行き先。 ランタンフェスティバルの直前だったので、所々それっぽい準備なども見れました。 県美のダニ・カラヴァン展、良かったですよ。 今は彫刻家として活躍されているそうですが、若い頃は絵描きを目指していたそうで、その頃のデッサンとかスケッチが来ていたのですけど、物凄いラフで何気ないのだけれども自分の興味の対象が何なのか、はっきり判る様な(気がする)感じで、あととても伸びやかと云うか健やかと云うか。理性的と云うか。 中々言葉にするのが難しいのですけど、見ている人を傷つけない、だけどハッとするメッセージ性も込められた、かなり存在感のある作品群でした。 こういうの、大好きです。 惜しむらくは、彫刻作品はスケールが大きすぎて実際に美術館へ持って来れず、映像でしか見れないこと。 でも、こう云う人がいるってことを知れてよかったです。 あと常設の彭城貞徳もかなりよかった。 個人的には日本に油絵が入って来た頃の日本人画家の油絵って何故か圧倒的に嫌いなんですけど、この人のは無理の無い感じで好きだと思いました。 二日目最初の歴史資料博物館ですけど、なんか物凄い立派な建物で、新しそうなんですけど、「大丈夫か?!」と心配になるくらい閑散としてて、…本当心配です。 建物は勿論、展示物もモニターや映像が多用してあって、かなり凝っていて、うーん、内容は興味がなければつまんないと云えばつまんなく感じるのでしょうけど…。 私は、奉行所で実査取り扱われた事件の沙汰なんかもあって、興味深かったです。 まあ物凄く、社会科見学や修学旅行のコースとしてチョイスされそうな所でした。 個人的には奉行所を再現してある建物がツボでした。御白州とかね! レンタル裃とかあったら、身に着けてあの場所をちょっとうろうろしてみたい(笑) そこの裏手にあった防空壕後にも少し。 …私、やっぱり閉所恐怖症の気があるのでしょうか。 物凄く怖かった。 戦時中はああいう場所やもっと狭い場所に避難し、外の地響きとか爆発音とか聞いたのかと思っただけで、ホント息が詰まる様に苦しくなりました。 生きた心地がしないだろうな…。 原爆資料館。 何と云うか、言葉が出ない。 私が通った小学校は何故か、夏休みの登校日には必ず(と云うか原爆投下日に合わせて登校日が設定されていたんです)平和学習授業と云うのがあり、資料館顔負けの展示物を見る事になっていたんですけど、なので、どういうものかは頭では判っていたんです。 だけど、やっぱり実際の場所で見るのは、違ってました。 爆心地のモニュメントを見ながら、この500メートル上空って今は雲の上だなあ、とか、この川に「黒い油状のもの」が沢山浮いていたんだろうか、とか、色々。 広島もそうでしたけど、そういった惨状を今も伝えるもののすぐ近くで日常を送るって、どういうことなんだろうな、と。 本来なら、福岡の小倉が二つ目の原爆投下の目標地点でした。 当時、小倉が天候不良のため長崎市に投下されましたけど、もし、一寸タイミングがちがっていたら。 この資料館が伝えている(大分抑えた展示物だと思いましたけど)ことが、自分のもっと近くで起きていたかもしれない(実は、小倉の他にも、そして実際に落された広島の他にも、原爆投下の候補地はいくつもあるんですよ。調べてみることをお薦めします)。 たった一発の(飽きれるくらいの大きさだとは云え)爆弾が。 人や物の影を焼き付け、石や瓦やガラスを沸騰させ、建物を粉微塵にして、永く苦しみと悲しみと不安を与え続けている、ってことを、思ってみる。 言葉がうまくでてきません。 あー。 何と云うか。 でも、目を逸らしちゃいけないことなんだなあって思います。 気が、大分重かったんですけど、行ってよかったです。 と云う。 んん。久々の帰省と、駆け足ながら結構有意義な長崎一泊でした。 |
Title : うつるよ。
あー、今日も晴天。
空気が乾燥しています。 注意が必要です。 昨日のエントリで一緒に書こうと思っていたんですけど、一作品ですげー長くなっちゃって、力つきたので仕切り直し。 お休み中に読んだ本。 京極夏彦『塗仏の宴』支度1〜4始末1〜4 また京極かよっと云う突っ込みはなしの方向で。 読み始めたら止まらないんですよ。 うーんと。感想。 …あー、この話、登場人物多すぎ。 そしていつもの様に色々な主観へ行ったり来たりするので余計惑わされました。 単に私がアホなだけですけど。 思ったこと。 作中、「よく『個人』といったものを主張するけど、『個』とは何なのか。周囲の有り様によって変化するものなんじゃないか? だとすると、『個』と云うものは本当はないのじゃないか?」と云うようなことがありまして(物凄い端折ってあるので、意味が伝わりにくいかとは思いますが、…そこはそれ。let's read 京極堂と云う事で)更に、「周りによって変わるものならば、『個』とは鏡の様なもので、映り込む周りの景色が変われば、鏡に映る景色も必然変化するし、『鏡を見る』と人は云うけれど、映っている景色を見ているのであって『鏡』自体は見ていない。…」と云う様な事がありました(また例によって物凄く端折ってます)。 こういった部分を読んで思ったのは、 個は確かに周り(自分以外の存在)があって初めて存在するので、確かに鏡の様なものだろうけど、厳密には鏡は一枚一枚どこか違っているので、移った景色も畢竟どこかしら違ってくるものなんじゃないかな、と。 それで、その違いが「個」と呼べるものなかもしれないし、そうでもないかもしれない、のか?、、、とかぼんやりそんなことを。 人と人の違いなんて、割と些細なことだったり行き違いがあったりして、それが面白かったり悲劇だったりするってことなのか、とか。 …うーん。多分、私はなんか読み違いをしてそうだな…(笑) 声高に個性尊重とか重視とか思いませんけど、みんなちょっとずつ違うらしい、ってことだけ知ってたらいいのじゃないかしら、とか。 とか、多すぎですけど。 まあ後そもそも、鏡がないと周りも映らないので。 うん、まずそれが大事ですね、きっと。 大学のときレポートのお題で「何故人は絵(その他創作と云われる全てのこと)を描くのか」と云うのがあったことを、思い出します。 これは前回の鉄鼠にも少し絡んでくるんですけど。 何か私はその当時も人は何かしら自分が得た外からの刺激を、どうにか形にして再び自分の外に出そうとし、その行程や、結果生み出されたものや、行為が芸術だったり創作だったりするのではなかろーか、と思っていて、そう云った旨のことを延々用紙に二十枚近く書き綴ったという。 ここまでが鉄鼠に絡んでいて、で、ここからは塗仏絡みなんですが。 その外から得る刺激を自分の中に入れる際のフィルターも、出力する場合に通すフィルターも人それぞれ違うので、そこに所謂差異としての「個性」が生じるのじゃなかろーか、と云った様な事も延々書き綴ったように思います。 …一枚で済むがな、たったこれだけのこと。 あー、今回はもそっとシンプルに纏めようと思ってたのに、何かまたズルズルと…。 |
Title : 長い、意味。
年明けからこっち、ずっといい天気。
寒いけど、冬はやっぱりこうでなくっちゃ。 新年明けました。 どうぞ今年もよろしく。 2009年はどんなことになるでしょうかね。 えーっと。 去年末から本を何冊か読みましたよ。 お休みは三が日だけって云う、なんか悲しくなる日程でしたけど。 …それでも休めるだけ幸せだー。 京極夏彦『鉄鼠の檻』1〜4 これも三度目の対面。 初めてと二回目の時はかなり意味が分からなくて、禅の説明の部分やらでいっぱいいっぱいになりながら読んでいたので、正直、ストーリーをあまり追えていなかったのでした。 だから、読了後の印象がかなりぼんやりとして、だけど疲労感だけは無駄にあって、なんだかケムに巻かれた様なイメージがかなり強い作品でした。 今回は、最初から禅の事などはどうせ理解出来ないだろうから、それはそれでキャラの動きやらストーリーやらをなるべく追って行こうと心がけたのが幸いしたのか、三度目にして漸く「あ、そう云うお話だったのね?!」と思うに至りました。 …アホスギル。 と、今回読んで思ったこと。 心の動きを人に伝えようとする時、身近な手段として言葉と云うツールを使う事が圧倒的に多いと思うのですけど、同じ言語を使ったとしても当人同士の認識がずれていたり意味を取り違えていたり、言葉だけじゃなくてそれを伝えようとしていた状況だったり、口調だったり、はたまた受取り手の気分次第で左右されて、発した本人の思惑と違った風に伝わったりすることもままあると思います。 だから本来なら、なるべく本人の意図した通りに通じる様に認識の擦り合わせなんかにかなりの労力が必要と思うんですけど、まあ、まずやりませんよね。 でも、この作業って、やっぱり大切なのじゃないかしら、と。 私は所謂空気を読んだりよく気がついたりするタイプでは、全く、ないので(気を遣うことは結構してるつもりなんですけど、裏目裏目に出るダイプ(涙))、日常会話などでその場その場の瞬間的な、言外の「認識の擦り合わせ」が得意ではないのですが。 だからこそ余計に、言葉って重いと云うか、深いと云うか重要なんだな、と。 それでも言葉では伝えきれない事と云うものはありまして。 それが作中では「言葉にすると逃げて行くもの」と云う風に表現してあります。 酷く納得の行く表現です。 作品に絡んだ事で云えば、「悟る」ということは到底言葉では言い表せない境地なのですが、悟った事を本人は勿論、その人が悟ったかどうか判る人には判る、らしい、と云う。 私の拙い言葉でどう纏めても、なんだか「悟り」自体が酷く俗っぽく簡単な事みたいですけど。 でも、その到底言葉では伝えられない境地が衆生救済の為には必要とされている(悟る事だけが必要ではないと思いますけど)ので、それを実践されている多くの人々は、どうにかして後進にそれを伝えようとする。 そうやって形に表されたのが数多ある教典だったり書画、仏像だったりするのかな、と。 確か二巻あたりにその様な事を敦子が思う場面があると思うのですけど、それを読む少し前に殆ど同じ様な事を私も考えていたので、吃驚しました。 そして京極さんも、隙間を丁寧に丁寧にこれでもかと云うくらい埋めてゆく様に、多くの言葉を用いて作品を仕上げて行く。 つらつら思うに、「言葉にすると逃げて行くもの」は、誰の心にも有って、それに真摯に向き合い具に眺め、形に表していこうとすることが、表現者、実践者と呼ばれるに相応しい人々なのじゃないかしら、と。 京極作品の厚さと重さが、別のものに感じられた、今回の読書でした。 |
